あとがき
平成十七年秋、大分在住の夫の親戚宅(「佐田秀の長歌」所蔵の親戚とは別)を訪れた折、またも
面白そうな額装の古文書を見付けた。古そうではあるが、保存状態は良かった。最初見たときは五、
六字くらいしか読める字はなかったが、個性的な書体と「白縫の」という枕詞にひかれて写真を撮
らせて頂いて後日読んでみた。
「和淑臣君悲別歌」と題される歌は上記の様な優雅な万葉ことばが散りばめられていた。
大分の親戚で見つけた古文書の千尋について手掛かりのないまま平成十九年にホームページに掲載
した。ところ、平成二十年八月私のホームページを御覧のK氏から「佐田秀歌集」」(昭和七年宇
佐郡史談会発行)のコピーをお贈り頂いた。一読して驚いたことには、「和淑臣君悲別歌 千尋」
と同題、ほぼ同文の歌が歌集に収められていたことが分かった。これには添え書きがあり、
「右二首は千尋といふ名を記しありし調も筆も異なりたれは、或いは他人の歌ならんか」とある。
佐田秀のもう一つの長歌「坂本是政ぬしのこひによりてよめる長歌」の筆跡とは異なるような気も
するが。
明治五年佐田秀ご遺族が遺作の歌集をまとめたとき、既に千尋のこの歌がご遺族宅にあったという
ことだろう。
佐田秀が千尋の名で歌を詠んだものか。全くの別人の歌なのか。別人であるならその人物は誰なの
か等については不明である。
もし仮に佐田秀でないなら、一人だけ気になる人がいた。それは久保會蔵(号千尋)という人物
である。久保會蔵は幕末大分の臼杵藩学集成館の皇学教授で、明治になり自宅で子弟に古典を教
えていた。その教え子の中にのちに小説家となった野上弥生子がいたことが分かった。野上は久保
會蔵から源氏物語や古典を学んだという。
また倒幕運動奔走中にも拘わらず秀は三、四回の歌会や歌合を催していることから、
秀周辺の歌人の作であるかも知れない。
なお佐田秀の「坂本是政ぬし云々」と、この「和淑臣君悲別歌 千尋」の所有者は元をたどれば
夫の親戚(明治生・昭和二十年代没)は宇佐出身である。その親戚は戦前台湾で医師として活躍
したと聞いた。また佐田秀の継嗣は台湾総督府蕃課長、従五位勳四等賀来倉太氏で、同郷でも
あり交流もあったと考えられる。
いづれにしても先に紹介した「佐田秀の長歌」と、この「千尋の長歌」は、二つとも佐田
秀歌集に収められ、共に万葉ことばが燦然と輝いていた。
大分で遭遇した古文書から多くの万葉のことばに出会えたことは私にとって全くの僥倖で
あった。
この歌に関して、また解読に関して、なにかお気付きの方は是非ともお教え頂きたく、
お願い申し上げます。
ホームページ公開にあたっては現在の所蔵の方の快諾を得ました。ここに感謝申し上げ
ます。
和泉屋楓
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