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幕末草莽の志士・歌人

佐田秀歌集

佐田秀

2022/ 2/ 15 改訂


  佐田(さた) (ひずる) 

是将ぬしの請いによりて詠める長歌


*文久二年戌十一月 島原藩士坂本是政将にかはりて詠める  

(平成十七年大分県宇佐市指定文化財)












*画像は六枚に切れていますが実際は一枚の巻紙です。
              




   
   
  
  
  坂本是将ぬしの こひによりてよめる長歌 佐田 秀

                        

  
   (文久二戌十一月 島原藩士坂本是政将にかはりてよめる)(1862年)                               
 (あきつ)島日本国は 天地(あめつち)の神相うつのひ 皇祖神(すめろき)御霊(みたま)(たす)け 物部の相集ひ 天皇(すめろき)仕奉(つかへまつ)る国そ

(かしこ)きや吾(おほ)(きみ)の 行知(きこしめ)す 天下(あめのした)に 国はしも(さは)あれとも 城はしも(さわ)くあれとも 馬の爪
筑紫(つくし)の国は 天地(あめのした)日月(ひつき)(むた)  ()りゆかむ神の御面(みおも)と 国毎に神の名(おは)し 御名(みな)ことに

国の名かゝす 其中に別き(くずし)き 白縫肥前国(ひぜんのくに)の玉勝間 島原城ハも 天皇(すめろき)遠朝廷(とほみかど)
(あた)守る押塞(とりで)()そと 東の幕府の 貴くも(まけ)たまひ (かしこ)くも(よさし)賜へれ


負持(おひもた)国しき()らす 吾君の遠つ神祖(かむおや)(みこと)ハも 東照神尊に 内部(うちのへ)につかへまつり
外部(とのへ)にたち(はべ)らひ 不奉仕(まつろはむ)国を治むと 千早旧(ちはやふる)人をやはすと  御軍(みいくさ)()前にたち
かへりミす 御楯(みたて)となりて ゆゝしくも奉仕(つかへまつ)れる 丈夫(ますらを)(みこと)にしあれは  
そこたくの国負持し 幾許(こゝは)(めぐみ)玉へれ


(あれ)ませる御子の数々 (つぎ)の木の弥嗣継(つぎつぎ)木綿花(ゆふはな)の栄えいまさひ 御民をら()つみ玉へれ


奉仕(つかへまつ)(おみ)(やっこ)(しき)ませる国も(あがた)も 万代(よろづよ)にかくしもかもと 御仁政仰てまつに
迷言(およづれ)狂言(たはごと)とかも (いつ)る日の暮ぬること 照月(てるつき)の雲かくること 行水(ゆくみつ)の 留めもえねハ

紅葉(もみぢは)の過(キ)ましにけれ


昼ハも嘆かひくらし 夜ハもいき衝(き)明し なけゝともしるしなみ 曇り夜の迷へるほとに 
有職の人のこと/\ 言計りはかり定めて 鳥かなく東国(あづまのくに) 国ハしも(さは)にあれとも
君ハしも多くませとも 衣袖(ころもて)常陸(ひたち)の国ハ 武士(ものゝふ)健甕槌(たけみかつち)大神(おゝかみ)鎮坐(しづまり)います (くしき)

畏き国 (くは)しき国のこと/\ 布坐(しきませ)る水戸君ハも (いにし)への実事(まことのこと)(しぬ)はし

 

血速旧神を(いつか)し 天下国のそき (まつろ)ハぬ蝦夷(えみし)(とも)を はき清め 言向和し

敷島(しきしま)日本魂(やまとこゝろ)天皇辺(すめらべ)に極めつくし 剣太刀 (つるぎだち)いよ(とぎ)置て 大将軍の御楯とならむと

言立し 清きその名は 天地に多響き (たり)つる丈夫のたけき君なれ

(あれ)ませる 御子(みこ)ハことさら ゆゝしく(さと)り賢し (かしこ)きや 其御子(みこ)をしも

(たづ)の迎へ参入越(まいりこ) 嗣(つぎ)の樹の 継て立つれ 


曇りよの明ゆくごと 朝月夜(あさつくよ)赤き心を 人皆のつかへまつろふ  

そを見れは あやに(ゆゝ)しみ 此を思へハ (いや)(とも)しみ 

頑固(くなたふれ)
蝦夷(えみし)かともの 
千万の軍あともひ
 大船の()ゆも(とも)ゆも火矢放ちすゝしきほひて
おほゝしく今もよせてハ 天地の神をこひのみ 御軍の()前に立(チ)焼刀の 手柄押ねり
白真弓(ゆき)取負て 神風の息吹(いふき)迷はす 天雲の(きら)ふ火中ゆ 投矢(なげや)もち海に射()しつめ 
打さため 払ひ平らけ 日の本の日本の国の 神稜威(かむいつ)の畏き事を 丈夫(ますらを)の敵す手内(たなぬち)を 天雲(あまくも)
向伏極み 天地(あめした)の至れるまてに 蝦夷(えみし)等か聞迷ふま たふれちる見おつる迄に 

神風に伊吹(いぶき)まとはし 天雲にいひはふらして (ゆか)水漬(みづく)(かばね) 陸ゆかハ草生(くさむす)(かばね)
天皇(すめらき)に つかへまつり 吾君の御楯(みたて)とならむと 思ひきわめ羊蹄()

  △海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ(万4094) (大伴家持)




 
  
この佐田秀長歌翻刻に際しては郷土史・古文書研究家である故椿太平氏の多大なご協力を
  賜わりました。また貴重な資料を提供して下さったK氏、御二方のご厚意に心より御礼を
  申し上げます。
  翻刻文は変体仮名は仮名に直し、片仮名はそのままに表記しまた。




                    あとがき
  平成十二年秋、大分の夫の親戚の家を初めて法事で訪ねた折、仏間に掲げられていた、
  額入りの茶色に日焼けした古文書に目が止まった。誰にも注意を払われることなく、
  百年以上もそのまま眠っている様であった。いつからここに有ったのか、どの様な経
  緯でここに眠っていたのか、所蔵していた親戚が亡くなった後でその古文書について
  何一つ手がかりはなかった。
  古文書の写真を撮り、後日かなりの日数がかかったが解読してみた。

 「坂本是将ぬしのこひ(請い)によりてよめる長歌 佐田秀」と書かれた長歌は壮大で
  叙情的な万葉調のことばに彩られた長歌だった。
  これほど格調高く万葉調「ますらおぶり」の歌を詠める人は何か外にも手掛かりを残し
  ていると思い、作者佐田秀について調べていく内に「佐田秀
(さた ひずる)」という勤王
  の志士の名が浮び上がって来た。
  佐田秀は慶応四年(1868年)一月豊前四日市(宇佐市)御許山
(おもとさん)で起きた勤皇
  倒幕の挙兵事件で二十九歳で長州藩士に斬殺されたという。佐田秀がこの長歌の作者と
  考えると、長歌の内容と幕末の勤皇思想が一致する様に思われる。

  平成十三年六月この長歌の解読文を親戚に送ったところ、間もなく佐田秀の子孫の方が
  分かり、この古文書を解読文と共に差上げたと聞いた。
  佐田秀の墓地は大分県宇佐市
安心院(あじむ)にあることはホームページで知ったが、
  その安心院に今でも佐田秀の子孫の方が住んでいらしていて、このたび佐田秀没後
  百三十五年を経過して、この古文書がゆかりの許へ帰ったのだった。なおこの古文書
  が佐田秀子孫宅に移ってすぐに、私が訪ねた親戚の古家は取り壊された。
 
  この長歌を私のホームページに掲載したのを機会に改めて「佐田秀」について調査した
  ところ、なんと平成十七年三月に「佐田秀長歌」と題した文書が大分県宇佐市の指定文
  化財になっていることが分かった。早速宇佐市文化財課に問合わせたところ、この長歌
  と指定文化財は同じものであることが判明した。
  後日伺った話では、佐田秀のゆかりの方が宇佐市に申請し、指定文化財に認定された
  そうだ。

  平成十七年の秋、佐田秀の御子孫のお宅で、宇佐市の文化財に指定された「佐田秀の
  長歌」に対面する機会があった。立派な桐の箱から出てきたのは、あの茶色に日焼け
  した古文書ではなく、しみ抜きされ、きれいに表装されてまるで見違えるようになっ
  た美しい古文書であった。
  近くの小高い丘にある佐田秀のお墓を訪ね、墓前で静かに手を合わせた。不思議な安
  堵感に浸った・・・。
  幕末激動期、二十九歳で無念の死を遂げざるを得なかった佐田秀が、この度のいきさつ
  を一番よろこんでいるような気がした。
  くずし字に興味を持ち始めたばかりの私にとっては、まさに忘れられない古文書との
  出会いとなった。
 
        *佐田秀の長歌・御許山騒動・史跡などに関してはこのホームページの
            幕末草莽の志士・歌人 佐田秀 を御覧下さい。
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