頼養堂安永五年~嘉永四年(1775~1851)通称千蔵。字子善。
諱公遷。号攸好・竹里・竹堂・十八洋。頼惟宣(通称伝五郎)の子。幼少より
頼春風に教えを受けた。春風らが設立した竹原書院では春風、石川豊洲と共に
中心人物であった。寛政十二年(1800)父(頼惟宣)の死後三年で家業の紺屋を
やめて神辺にある菅茶山の廉塾に遊学。文化元年(1804)江戸に遊学し、茶山
の紹介で伊沢蘭軒や狩谷棭斎の世話になっていたが、文化十一年(1814)広島に
帰り塾を開いた。南海を遍歴し、いたる所に詩文を残した。
幕府奥儒者の成島司直は文化六年(1809)より四十年間にわたり
「徳川実紀」の編纂・撰修にたずさわり、これを完成させた人物であるが、
天保六年(1835)閏七月に成島司直(当時五十七歳)が頼養堂(当時六十一歳)
と二人で旅行をした折りに詠んだ漢詩がこの古文書の筺にある。
頼養堂は遊歴中特に伊予、久万山の岡本家、船田家と親交を深め多くの書跡を
残した。書家として有名。享年七十七歳で広島、中島で没した。
(山陽先生の幽光 光本半次郎著 芸備日々新聞刊 大正14年発行)
(医事新報NO2788 頼春風と彼をめぐる人々 阪田泰正 昭和52年)
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