後六月廿九日

追て□道書状之返事ハ期後便候。
佐藤足利事、堀田佐々木之事一々
手前いたし候。此書ハ串田へ
たのミ遣し候。

 
表紙へ (伝)頼春水の手紙


  頼春水(らいしゅんすい)
  江戸後期の儒学者。名は惟寛(ただひろ)惟完。通称、弥太郎。字は千秋。伯栗。別号に霞崖、
  拙巣、和亭。頼山陽の父。妻は静子。安芸竹原生れ。大坂に出て片山北海に学び、広島藩の儒官。
  詩をよくし、朱子学を講究。(1746~1816)

  十九歳泉州堺に行き
趙陶齋(ちょうとうさい)に書道を学び、二十一歳大阪 に遊学、片山北海の門に
  入り、中井竹山、尾藤二洲、古賀精里等と共に学んだ。二十八歳の頃家塾春水南軒を開いて門人を教
  えた。三十四歳飯岡義齋の女静子を娶り、翌年山陽が生まれた。三十六歳の時芸藩の学問所創設に当
  たり、儒員に抱えられ朱子学派の新進として藩校の学政にあずかる。それより次第に重用せられ、五
  十歳の頃までは江戸詰として世嗣(齋賢公)の輔導に任じた。晩年は藩の学政を管掌して藩学の振興
  に貢献した。藩はその功を認め禄三百石を給した。 文化十三年七十一歳で没した。 また春水は江戸
  詰の時しばしば昌平黌で経書を講じた。藩に建議して創始した修史の業は、これを中止せざるを得な
  かったが、子山陽がその志を継いで日本外史、日本政史を完成した。

  著書に、東遊紀行、負剣録、一志通恵、竹館小録 霞関掌録、学統辯、春水遺稿等がある。
  妻静子は後に
梅颸(ばいし)と号した。


       参考
      山陽先生の幽光 光本半次郎著 芸備日日新聞
大正14発行
      頼山陽先生 財団法人頼山陽先生遺蹟顕彰会
昭和15年発行
       頼春水 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






自分ニも何となく心細く存候や、お静と逢申度
候段度々申候由ニて遣候事も有之。その翌日より又
打て替て宜敷時も有之候て、廿五日二此方打越、しかしか
の事共申聞、心つよく存居、人々申事をその比ハ
転薬ニて気分も宜敷成候故、一入悦ひ人ニも吹調
いたし候事共、老母はなし悦ひ被申候。加藤ハ
その夜七時頃ニ被打越候。
 
夫より葬儀万端之
物入評議ニて候。翌廿八日早朝又々加藤へ打越
表ニて一卜評議いたし、先々可也ニ葬式ハ
此方と竹原ニていたし候事ニ及ひ申候。差図ハ
嶌定斎之断と聞え申候。以上

今度ハ死後之恥有之事、故下ノ事ハよろしく
被成遣候へと病間ニたのミ候よしニ候。おとせ此事
安心かへ受取て取計ひ可申と申由ニて、その方
の事万端受取少しも人手ニかけ不申の事。

此方打越候ハ九ツ時頃ニ打越し候。権次郎ハ早く参候。
家内不残落涙、数馬ハ未新潟灸治万端手を
尽候後事ニ候へ共、肌なと手をあて所*憑
ノ意ニも当りし長病之所、無油断取計ひ遣候事。
(前文欠)
見舞ニ家内遣し赤豆飯ニ東瓜ニ蒲ほこあぢ
なとの進物を見ニ立つ抔右悦ひ候事、飯たべ
見申度とて始て飯をたべ、起て見申度とて
起坐して少し飯を食し候事、誠ニ玄珠
薬効と神仏の冥助とて家内ニハ大悦いたし候。

乍然玄珠ハ此事一向ニあてニ成候事ニハ無之、
御油断不被成候様にと申候、七も見舞ニ人遣し候便ニ
申越し、果して廿七日七時過より様子大
替り候事候。早速玄珠呼ひニ、数馬参り候よし。
追々いけぬ事ニ移り申候。右駒井家内
深切至極、妹のおとせなとの仕方感涙之事ニ候。
 (手紙裏に後人注「春水」とあり)
       翻刻 羽生榮氏   


 
  *
推測
手紙の日付が「後六月」とあることに注目して、江戸時代後半の閏六月のある
月を調べてみると、以下の年である。合わせて頼家の主な出来事も記す。

 1770年 明和7年
4月末亨翁は上阪、弥太郎を従え東遊を企て、5月2日出発、6月29日帰阪。春風は大阪に、杏坪は竹原に留守番。

 1789年 寛政1年
寛政元年11月8日に頼春水の妻梅颸の父飯岡義齋が73歳で没。飯岡義齋は本名篠田徳庵。大阪の儒医。(1717−1789)

 1808年 文化5年
4月春水娘三穂が藩士進藤彦助に嫁す。

 1827年 文政10年
春水没して11年後。閏6月、山陽下阪。篠崎小竹、大塩中齋を訪ね、廿日帰京。春水遺稿なる。山陽「日本外史」を楽翁(松平定信)に献ず。8月菅茶山80歳で没。



閏六月のある年の中から、この手紙の内容と一致するものを推測するに、寛政元年11月には頼春水の妻梅颸の父飯岡義齋が73歳で没している。この年の閏 6月頃は飯岡義齋は予断の許さない病状で、春水が妻梅颸を見舞いに遣わしたものか。

飯岡義齋、名は孝欽。字は德安、澹寧。嘗て医者。篠田德庵と称す。大阪の人。寛政1年(1789)11月8日没。年73歳。第三女は尾藤二洲に嫁iいでいる。
なお梅颸は前月の6月に三穂を出産していることから、梅颸は実家大阪に滞在していたものか。

 手紙の中の医師玄珠については疑問を生じる。広島の医師牛尾玄珠は春水の息子久太郎(山陽)の掛り付け医師である。同じ人物であるとすると飯岡義齋は大阪に住んでいるので往診は考えられず別人か。
 手紙後半に「権次郎は早く参り候」とあるが、後に山陽が脱藩事件を起こし廃嫡し、春風の息子権二郎を継嗣とした。この権二郎こと元鼎(げんてい)は翌年の寛政2年生れなので、別人と思われる。

 この手紙の内容から推測するに、恐らく春水の岳父の病気中と思われ、春水が叔父の伝五郎か、あるいはその息子養堂(春水の従兄弟)へ宛てたものと推測するが詳細は不明である。

参考 国立国会図書館「日本の暦」ー大小対照表


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