閏六月のある年の中から、この手紙の内容と一致するものを推測するに、寛政元年11月には頼春水の妻梅颸の父飯岡義齋が73歳で没している。この年の閏
6月頃は飯岡義齋は予断の許さない病状で、春水が妻梅颸を見舞いに遣わしたものか。
飯岡義齋、名は孝欽。字は德安、澹寧。嘗て医者。篠田德庵と称す。大阪の人。寛政1年(1789)11月8日没。年73歳。第三女は尾藤二洲に嫁iいでいる。
なお梅颸は前月の6月に三穂を出産していることから、梅颸は実家大阪に滞在していたものか。
手紙の中の医師玄珠については疑問を生じる。広島の医師牛尾玄珠は春水の息子久太郎(山陽)の掛り付け医師である。同じ人物であるとすると飯岡義齋は大阪に住んでいるので往診は考えられず別人か。
手紙後半に「権次郎は早く参り候」とあるが、後に山陽が脱藩事件を起こし廃嫡し、春風の息子権二郎を継嗣とした。この権二郎こと元鼎は翌年の寛政2年生れなので、別人と思われる。
この手紙の内容から推測するに、恐らく春水の岳父の病気中と思われ、春水が叔父の伝五郎か、あるいはその息子養堂(春水の従兄弟)へ宛てたものと推測するが詳細は不明である。 |