頼山陽 安永九年~天保三年(1780~1832)
江戸時代末期の儒学者・歴史家・漢詩人。安芸(広島県)の人。諱は襄、字
は子成・子賛。号は晴陀・里鳥・改亭・三十六峰外史。なお山陽は号である。通称久太郎。
頼春水の子、大阪に生れる。
寛政九年叔父杏坪に伴われ江戸に至り、尾藤二州の塾に入り、また昌平黌に学ぶ。
寛政十年安芸藩竹原に帰り、翌十一年藩医御園道英の女淳子と結婚。
寛政十二年脱藩により監禁となり、後に廃嫡の身となる。
文化六年備後神辺の菅茶山の家塾を督し、 文化八年これを辞して京都に上り私塾を開く。
文化十年勘気許免となる。子餘一は春水の嗣子となる。妻淳子は脱藩事件後に離縁される。
文化十二年三十六歳の時小石元瑞の養女梨影を娶った。
文政十年日本外史を松平楽翁に贈り、十一年京都三本木の水西荘山紫水明處に居を構えた。
天保元年日本政史起草し、未だ脱稿せずして天保三年五十三歳で没す。
( 著書)日本外史、日本政史、日本楽府、山陽詩鈔等。
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