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頼家 略系図と人物概略一覧





頼家略系図の人物とその周辺の人々
  
    頼正茂
通称 総兵衛(諱 道圓 )先祖は代々小早川家に仕えて三原に住んでいた。
1603年(慶長2年)小早川隆景が没する時、正茂は三原付近の頼兼(よりかね)に退き、
その後竹原に移住、屋号を頼兼屋と称し海運業を営んだ。竹原頼家第一世である。


    頼道喜



第二世 通称 弥七郎


    頼良皓
第三世 通称 弥右衛門 (諱 善祐)

    頼亨翁(こうおう)
第四世 通称 又十郎(諱
惟清(ただすが))紺屋を業とした。家業の傍ら国学に志し、京都に遊び
馬杉亨安につき和歌を学び、また晩年京都の小沢蘆庵、伊勢の谷川淡斎などに師事した。
天明3年2月1日没。 享年77歳。(1707~1784)。妻は道工助右衛門景房の娘仲子。

   ○頼春水(しゅんすい)
第五世 通称 弥太郎(幼名阿珪)(諱
惟寛(ただひろ)惟完(ただひろ))(字 千秋・伯栗)
安芸竹原生れ。山陽の父。
大坂に出て片山北海に学び、広島藩の儒官。詩をよくし、朱子学を講究。
また江戸詰の時しばしば昌平黌で経書を講じた。藩に建議して創始した修史の業は、これを
中止せざるを得なかったが、子山陽がその志を継いで日本外史、日本政史を完成した。
著書に、東遊紀行、負剣録、一志通恵、竹館小録 霞関掌録、学統辯、春水遺稿等がある。
延享3年6月30日~文化13年2月19日。享年71歳。(1746~1816)。
妻は飯岡義斎娘静子。静子は後に
梅颸(ばいし)と号した。
   ○頼春風(しゅんぷう)
通称 松三郎 (幼名 阿松・松齢)(諱
惟彊(ただたけ))(字 千齢(せんれい)
享翁の三男。竹原に生まれ春風館を興す。広島藩儒。医と儒を業とする。 久太郎脱藩廃嫡の際は、
春水の懇願により長男元鼎(權二郎)を春水の養子とした(文化元年1804年)が、跡継ぎを欠き、
長女唯子に医師花山文台、尚平を迎えて養嗣子とした。
宝暦3年~文政8年9月12日(1753~1825)。享年73歳。妻 田中儀助娘順子。

   ○頼杏坪(きょうへい)
通称 萬四郎(まんしろう)(幼名阿萬)(諱 惟柔(ただなご))(字 千祺(せんき)・季立)(号 杏皤・杏翁)享翁の末子として
竹原に生まれる。兄春水と共に大阪に出て片山北海の門に学んだ。
春水に後れること4年芸藩儒となり藩学の興隆に力を尽くした。
また財政的識見あり、のち郡令に転じ政績を挙げた。香川景樹の門で和歌を学び、
歌集『唐桃集』がある。
宝暦6年~天保5年7月23日(1756~1834)。享年79歳。
妻は加藤静古の娘で加藤十千の孫の恭子、後ち
玲瓏子(ゆらこ)と改めた。

   ○頼山陽
通称久太郎 (幼字 子賛)(字 子成)(号 晴陀・里鳥・改亭・三十六峰外史)(諱
(のぼる)
江戸後期の儒学者・史家・漢詩人。
天明元年(1781)12月山陽の父春水広島藩儒学者に登用に伴い一家は大坂から広島へ移る。
18歳の時、江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。
20歳、(御園道英娘)淳子と結婚。
21歳の9月5日竹原の大叔父伝五郎の死を弔問するため、父春水の名代として訪ねて葬儀、
墓参後竹原への帰宅の途中出奔。脱藩は当時重罪であった。
所在判明後は頼家離れの一室に監禁された。藩法により妻淳子と離縁、生まれた子
都具雄(とくお)
梅颸(ばいし)が引取り養育。この事件により廃嫡。山陽の幽居は5年に及んだ。
30歳の時、菅茶山から廉塾の塾頭にと所望され、神辺に行き、茶山を輔けて門人を教えた。
32歳の時兼塾を去り、多年の志望である京都行きを達成。
京都の儒医小石元瑞と親交し塾を開く。名を徳太郎と改めた。京都頼家一世。
36歳小石元瑞養女
梨影(りえ)と再婚。書斎三本木水西荘に転居し、そこに「山紫水明処」を建て、
文人と交わる。詩文にすぐれ、書もよくした。
著「日本外史」「日本政記」「日本
楽府(がふ)」「山陽詩鈔」など。
安永9年12月27日~天保3年9月23日。享年53歳。(1780~1832)


    頼惟宣
通称 伝五郎(号 融厳)学殖あり竹原で子弟を教えた。飯田頼家の祖。
配は鳥井氏娘。寛政12年9月3日没(~1800)


   ○頼養堂
通称 千蔵 (字 子善)(諱 公遷)(号 竹里・竹堂・十八洋)
幼時より従兄弟春風・杏坪について漢学を学ぶ。南海を遍歴し、いたる所に詩文残した。
遊歴中伊予の久万山の岡本家、船田家と親交を深め多くの墨跡を残した。
妻は小原氏娘。
嘉永4年9月11日没。享年77歳。(1774~1851)

      頼梅颸(ばいし)
頼春水の妻。飯岡義斎(篠田徳安)娘静子。26歳より没年までの59年間日記を記す。
宝暦10年~天保14年12月9日。享年84歳。
1760~ 1843)。静子の妹梅月(直子)は尾藤二洲の妻。 


    頼三穂
通称お十 進藤吉之助妻。 寛政元年 ~ 文政9年(1789 ~ 1826)


    頼元鼎(げんてい)
通称 権次郎 (号 景譲)(字 新甫)(幼名熊吉)文化元年山陽廃嫡により春水の養嗣となる。
寛政2年 ~ 文化12年1月28日。享年26歳。(1790 ~ 1815)

    頼聿庵(いつあん)
第六世(通称餘一)(都具雄(とくお))(諱 元協(もとただ))(孤飛山人)学問所教授後、
江戸詰侍読の任。聿庵の母は御園道英娘淳子。
安政3年8月30日没。享年56歳。

    頼辰蔵
通称 辰之助。夭死。


    頼支峰(しほう)
通称 又二郎・復次郎 ( 諱
(あつし))(西涯)(字 士剛)京都頼家二世。
文政6年11月6日~明治22年(1823 ~ 1889)

    頼三樹
通称 三樹三郎(諱 醇)(子春)(
鴨厓(おうがい) 頼山陽の第三子。詩文をよくし、
嘉永年間、梅田雲浜(うんぴん)らと謀り、大いに尊王攘夷を議し、安政の大獄に坐し、江戸で刑死。
文政 8年5月26日 ~ 安政6年10月7日)(1825 ~ 1859)

    頼小園
通称 尚平。春風娘唯子と結婚し、春風家の跡を継いだ。竹原医師花山文臺の五男。
安政3年8月8日没。(1856年)享年65歳。

    頼采眞
通称 佐一郎 (字 子晦)(諱 舜壽) 御銀奉行、阪府御屋敷御目付、御普請奉行など歴任。
矢野八幡宮祠官香川日向守国休の娘加禰子。
寛政2年~嘉永3年5月。(17901~1850)

    頼立斎
通称 常太 (諱 剛)篆刻家。伊賀国上野町に住んだ。
文久3年(1863)没。享年61才。

    頼立石
霞亭。飯田頼家一世。


    頼淳子
御園道英娘淳子。頼山陽の最初の妻。寛政11年2月結婚。寛政12年山陽脱藩事件により
離縁となる。

    頼梨影(りえ)
頼山陽の後妻。蘭方医小石元瑞の養女梨影。
安政2年没。享年59歳。(1797~1855)

    頼順子
頼春風の妻。田中儀助娘順子。
明和2年~弘化元年8月12日。享年80歳。

    頼玲瓏子(ゆらこ)
頼杏坪の妻。加藤静古の娘で加藤十千の孫の恭子。文政元年(1818年)没。享年46歳。


    飯岡義齋
本名 篠田徳庵。名は孝欽。字は德安、澹寧。大阪の儒医。篠田德庵と称す。
第二女は頼春水へ、第三女は尾藤二洲に嫁ぐ。
寛政元年11月8日没。享年73歳。(1717−1789)


    御園道英
広島藩医。頼山陽の最初の妻淳子の


    尾藤二洲(びとうにしゅう)
儒学者。寛政の三博士の一。名は孝肇。伊予の人。片山北海に学び、のち朱子学を正学として
尊び、
昌平黌(しょうへいこう)の教官。著「正学指掌」「素餐録」など。
延享4年10月8日~文化10年享年69歳。(1747~1813)


    加藤十千
名は友德。好謙、後に孫三と称す。別号は豈苟。安芸郡海田市の人。広島藩に仕える。
安永7年7月7日没。享年80歳。(~1778)


    加藤靜古
名は兼次。甲次郎と称す。加藤十千の次子。広島藩儒。
安永7年6月6日没。享年42歳。(~1778)

   ○菅茶山(かとうちゃざん)
   (かんさざん)

通称太仲(太中)。名は
晋帥(ときのり)。字は礼卿、。本姓、菅波氏。備後神辺の人。
京都の那波魯堂に学び、帰郷して廉塾を開く。詩に長じ、宋詩を唱道。頼山陽の師。
江戸後期の漢詩人。著「黄葉夕陽村舎詩」「筆のすさび」など。
享年80歳(1748~1827)
 
   ○成島司直(なるしまもとなお)
幕府奥儒者。邦之( くにゆき ) 。号東岳。 1809 年より 40 年間にわたり「徳川実紀」
の編纂・撰修にたずさわり、これを完成。著「東の春 」「老のくりこと ( おいのくりごと )」
「改正三河後風土記」等を著す。
文久2年没。(1778~1862)



 
   
             資料
  山陽先生の幽光 光本半次郎著 芸備日日新聞
大正14発行
  頼山陽先生 財団法人頼山陽先生遺蹟顕彰会
昭和15年発行
  



参考サイト

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
頼春水  頼山陽  菅茶山


福山誠之館同窓会 (広島県立福山誠之館高等学校歴史資料室)

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